テスト期間というのは妙に時間を持て余してしまうものだ、と宍戸は思う。 どの部活も休みになるため、普段は賑やかな放課後の校庭も今日は静まり帰っていた。 テストも試合のようなものだと考えている宍戸にとっては、普段から練習するのと同じようにそこそこ勉強をしていることもあり、テスト期間に入ったからといってとたんに机にかじり付くということはない。 それだけに、授業が終わった後いつもなら急いで部活に向かう時間を、どうしたら良いのかとなんとなく手持ち無沙汰な気分でいた。 「じゃーな、宍戸。俺ら帰るわ。」 「お先に?」 「おう。」 ノートを写させて欲しいとか、この問題解き方どうだっけ?とか聞いてくるクラスメイトも、さすがに3年目ともなると誰が何を得意なのかわかってきているらしい。部活一筋のように見える宍戸よりは、勉強一筋のように見える文化委員長などを頼る姿のほうが多かった。 かといって、こんなに早く家に帰るのも慣れていない。 自主練習しようにも、会員制のコートが空く時間帯になるまではまだ間がある。 それに…いつも自主練習に誘う相手も、テスト期間なので無理に呼び出すわけにもいかないのだから。 「………図書館にでも行くか……。」 めったに寄り付かない図書館にでも行って、時間を潰すか。 そう思って教室を出た宍戸は、外ではなく特別教室棟の方へ向かった。 広大な敷地を持つ氷帝学園の図書館は、校舎とは別に建てられている。 しかしその校舎も巨大であるため、迂回するよりは校舎内を抜けていったほうがずっと近いのだった。 窓から差し込む夕日に目を細めながら、渡り廊下を過ぎて階段を下ろうとした時。 ふと、宍戸は顔を上げた。 「………?」 ピアノの音がする。 上の階の音楽室から聞こえてくると思われるその曲は、どこかで聞いたことがあるような切ないメロディだった。 一瞬、音楽教師であるテニス部監督の顔が脳裏をよぎる。 「そういえば…監督がピアノ弾いてるのってあんまり見ねぇなぁ…」 音楽教師も数人いるため、別の教師に当たっていた宍戸は榊の部活での姿しか思い出せない。 うっかり、本当に音楽教師なのだろうかと思ってしまうほどに。 何となく興味がわいた宍戸は、階段を下りるのではなく、音楽室に向かって上っていった。 「…………。」 音楽室のドアがわずかに空いていたので、そこからちょっと覗いたら去ろうと思い、こっそりと、足音を忍ばせて廊下を歩く。 別に堂々と入っても良さそうなものだが、部活が休みで用もなく訪れるのは気が引けてしまう宍戸だった。 西日と共にメロディーが廊下へこぼれ出しているドアの隙間から、そっと中を覗く。 「……あれ?」 光を背にしているため、その顔は影になって良く見えないけれど。 あれは……監督じゃなくて、もしかすると。 確かめようと、そっとドアを開ける。 キィ、とかすかな音を立てて音楽室の分厚いドアが開いた。 音が止まる。 「え…?」 慌てたように立ち上がった人影は、やはり見なれたシルエットで。 「長太郎!?」 「…宍戸さん!」 「何してんだ…こんなとこで?」 ピアノをひいていたのは一目瞭然なのだが。 お前はテスト勉強しなくていいのかよ、とぼやきながら近づく。 悪戯が見つかった子供のように照れ笑いをしながら、長太郎はそっとピアノの蓋を閉じた。 「今まで弾いてたのって……」 「あぁ…俺です。」 「お前…ピアノ弾けたのか?」 「えぇ、小さい頃から習わされたので、一応…」 似合わないですか?と長太郎は苦笑する。 肩をすくめて、宍戸はそれについて何も答えなかった。 光を背に、ピアノと一つの絵のように溶け合っていた姿を思わず、格好良いじゃねーかなんて思ってしまったなんて。 言えるかよ、と小さく呟いた。 「俺は音楽の時間に触ったくらいだな…弾こうと思っても指が動かねぇし。楽譜配られたけど、アレもぜんぜん弾けなかった。」 「あれって?」 「何だっけアレ…なんとかのために。」 「『エリーゼのために』ですか?」 「…たぶん。」 よく覚えてねぇけど、と、ぽりぽり頬をかく。 「それなら弾けますけど。…弾きましょうか?」 「あぁ…じゃぁ、お前のウデがどんなもんか聞いといてやるよ。」 聞いてもわかんねーかもしれないけどな、と笑う。 お手柔らかに、と囁くように言って、長太郎はピアノの蓋を開けた。 磨きあげられたようなピアノの表面が西日を照り返し、辺りはオレンジ色に染まっていた。 長太郎の手で柔らかく紡ぎ出される旋律に、宍戸は思わず溜息をつく。 誰でも一度は聞いたことがあるだろう、その著名なメロディだが、 「へぇ…こういうのって、弾く人が違うと全然違って聞こえるんだな…」 以前聞いたものよりも、それはずっと甘い響きに思えた。 ピアノの弾きかたは知らないが、聞いていて心地良いかどうかはわかる。 心地よすぎて思わず眠りそうだ、と長太郎の方を見ると、真剣な眼差しがピアノに向かって注がれていて。 宍戸は自分のことなどまったく忘れ去られてしまったかのような錯覚を覚え、思わず傍へ近づいた。 白黒の鍵盤の上を滑るその手を、指長ぇな、羨ましい、と覗き込む。 「宍戸さん。」 「ん?」 宍戸の影がピアノに重なる。 ふっと微笑んで、長太郎が呼びかけた。 「これ…好きな人に捧げる曲なんですよ。」 「……ふーん。」 どうしていきなりそんなことを言い出したのか、測りかねて宍戸は首を傾げた。 作曲者が誰だったかも、覚えていないような状態である。 「だからこの曲、もう他の人の前では弾きません。」 「は?」 「宍戸さんの為だけに弾きます。」 にこにこと、楽しそうに鍵盤を弾きながら長太郎はそう言った。 どう返せば良いのかわからず、宍戸は窓の外を見た。 建物の陰に夕日は沈み、空はだんだん紫から紺へと変わっていく。 ゆっくりと暮れていく教室に、ピアノの余韻がいつまでも残るようだった。 「さて…と。そろそろ帰りませんか?」 お前に弾けるくらいなら俺にもやっぱり弾けるんじゃねぇか、と散々ピアノと格闘した宍戸が疲れ切った頃。 最後に一曲、と今度は違う曲を弾き終わった長太郎がパタン、とピアノの蓋を閉じ、宍戸を見上げた。 「…そうだな。」 思いがけなく時間がたった、と宍戸が時計を見る。 すっかり暗くなった窓の外では、いつの間にか雨が振り出していた。 「あ、だいぶ降ってますね。」 「げっ…傘持って来てねーぞ…」 「宍戸さん、天気予報見なかったんですか?」 降水確率高かったのに、と長太郎が苦笑する。 「俺、傘持ってますから。相合い傘で帰りましょう♪」 「却下だな。」 「え?!?どうしてですか?」 「練習だと思って走って帰りゃいいだろ。」 「ダメです。テスト期間なんですから…風邪ひいたらどうするんですか。」 真面目な顔でそう言われると返す言葉がない。 膨れっ面で横を向いたまま宍戸が呟く。 「………背の高さ、違い過ぎるから嫌なんだよ。」 宍戸も低いほうではないのだが、さらに長身の長太郎と並ぶとどうしても低く見えてしまう。 「どうしても嫌なら……俺の傘貸しますから。宍戸さん使って下さい。」 「バーカ!風邪ひいたらどうするって、さっきお前が言ったろうが。」 「でも…」 しゅん、とうなだれる長太郎を横目に、宍戸は鞄を手に取った。 「ったく…ほら、帰るぞ!」 「えっ?」 「……ゆっくり歩けよ。お前とじゃ歩幅違うんだからな。」 本当はそこまで嫌がっているわけではないのだ。 仕方ないから送らせてやるよ、と向けられる視線は笑いを含んでいて。 それは長太郎の沈んだ気分を一度に吹き飛ばした。 「早くしないとお前の傘使って帰るぞ?。」 「あ、待って下さいよ!」 長太郎はさっさと音楽室を出て行こうとする宍戸を慌てて追う。 靴を履き替え外へ出ると、外灯の光に雨粒がきらめいていた。 「宍戸さん宍戸さん!」 傘を広げた長太郎がはしゃぐように呼ぶ。 「…何だよ。」 連呼するな、と片眉を上げながらその傘の下へ入る宍戸に、差し出される手。 「どうせなら、手をつないで帰りましょう?」 「はぁ?」 「その方が暖かいですから。…ね?」 雨のせいか、辺りはかなり冷え込んでいた。 二人とも吐く息が白い。 「お前…どっちの手で傘持つ気だ?」 「こっちです。大丈夫ですよ、ちゃんと宍戸さんが濡れないように差してますから。」 反対側の手で器用に傘を差してみせる長太郎に、見ているだけで腕がつりそうだ、と宍戸は一つ溜息をついた。 「宍戸さん?」 「……腕組むほうにしといてやる。」 「!…はいっ!!」 今日だけだからな。とぶつぶつ言いながら、それでもしっかりと長太郎の腕に自分の腕をまわす。 その腕で傘をさし、鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌で歩き出す様子を見上げながら、宍戸は小さく笑った。 「ホントに…何やってんだかなぁ…」 長太郎がピアノを弾いて。それを聞いて。 相合い傘で腕を組んで帰って。 いつもなら絶対にこんなことしないぞ、と思うのに。 それでも、今はそれがとても心地よかった。 「…?どうしたんですか?」 「何でもない。ゆっくり歩けって言ったろ?」 「あ…はい♪」 組んだ腕からじんわりと伝わる温もり。 それを確かめるように、一歩一歩ゆっくりと歩く。 傘を打つ小さな雨の音が、どうせなら家につくまで途切れないようにと願いながら。 それはどこか、あのメロディに似ていた。 |
うーん、なかなか恋人関係までいきません(汗) ちなみに長太郎が弾いていた曲のイメージ(『エリーゼのために』以外)は、 『別れの曲』と『主よ、人の望みの喜びよ』です。完全に私の好みで決めてます(^-^;) 書ききれなかったのですが、実はこの後長太郎に『彼女が出来た』『彼女と相合い傘で帰るのを見た』 という噂が流れて、宍戸さんが激しく不機嫌になったというエピソードがあります(笑) 何とかそこから関係を発展させていってほしいものです。頑張れ長太郎。 うちの宍戸さんはガード固いぞ。 |