虫の音、風の香、朧な灯火。

どこからか微かな祭囃子が聞こえる。

深い紫紺の空に散る星。

月が覗く山の端。

哀しいほど幸せで、寂しいほど満たされている。





――――――――――いつだって、隣にはあなたが居た。










******** 恋唄、宵闇、夏の花。 ********






窓を開けると、湿気を含んだ熱風が押し寄せる。
梅雨明けを宣言されても、夕立の後の空気はやはり重い。
下界へ水分を落としきって晴れ晴れとしたような空を見上げ、長太郎はひとつため息をついた。

"三年の夏は天王山"

受験でよく言われる言葉だ。
一貫教育とはいえ、文武両道を掲げる氷帝学園の高等部に進むためにはかなりの偏差値が要求される。
例に漏れず、三年になった長太郎もまた受験勉強に追われる日々を過ごしていた。
もちろん部活動も、夏の大会シーズンを前に連日の厳しい練習が続く。
土曜日である今日も朝からコートを走り回り、日が暮れるころにようやく家路に着いたのだった。

「さて…と。」

自室のベッドに腰掛け、携帯電話を取り出す。
このために、今日は夜の自主練習を切り上げてまで帰ってきたのだ。
たった一本の電話。
それでもそれをかけるのに、どれだけ迷ったことか。
先週は決心がつかなくて、携帯電話を眺めただけで終わってしまった。
夜遅くだと迷惑だろうからと、帰るのが遅くなる平日は遠慮をして。
そして今日を逃せば、ここまで迷った意味もなくなってしまうのだ。

「宍戸さん…出てくれるかな?」

携帯電話にももちろん時刻表示機能がついているのに、意味も無く壁にかかる時計を見上げてみたりする。
八時半。よし、まだ大丈夫。
ひとつ深呼吸をして、携帯電話をパチンと開く。
メールならこんなに緊張しなくても良いのに。
でも、やっぱり直接声が聞きたい。
携帯電話を操作する指がなんだかぎこちなく思えて、長太郎は苦笑した。
ルルルル…ルルルルル……
コール音にあわせて心臓がバクバク言っている。
去年なら、こんなに一つのことで時間がかかったりしただろうか。
毎日顔を合わせていたころ。
きっとあの頃なら、朝出会った瞬間に言えていたに違いないのに。
高等部と中等部はキャンパスが別のため、互いに部活を抱える現状では顔を出すこともままならない。
半年近くたった今でも、それは泣きそうなくらい寂しい、と長太郎は思っていた。
ルルルル…プツッ。
コールが途切れる音に、ハッと我に返る。

「…もしもし?」

ぶっきらぼうな声。
聞きなれた…聞きたかった声。

(あぁ…宍戸さんの声。)

照れたような、少し拗ねたようなその表情が思い出されて、微笑んでしまう。

「何だよ?用が無いなら切るぞ」

不機嫌さを増した声に慌てて言葉をかける。

「わわわ…ちょ、待ってくださいよ!」
「…お前が何も言わないからだろ?そっちからかけてきたくせに。」
「いや、宍戸さんだなぁと思ったら何だか嬉しくなって…ちょっと浸ってました」

こんな些細なことで、幸せだと思う。
思った瞬間、でも、胸の奥が痛む。

「はぁ?あのなぁ…俺以外が出るわけないだろ…」
「そうですけど。」

これで別の人(女の子とか)が出たら、泣いてしまうだろう。きっと。

「で?用は?」
「あ…その……お久しぶりです」
「…本当に用も無いのにかけてきたのか?」

呆れ声。

「ち…違いますよ!」

切られてしまうんじゃないかと、慌てて言葉を繋ぐ。

「じゃぁ何だよ?」

それでも、やっぱり言い出すのには勇気がいるのだ。
深呼吸。

「宍戸さん、俺と…」

言葉を選ぼうにも、相手は宍戸さん。
つまりは直球勝負じゃないと伝わらない。

(一球入魂!)

全力でサーブを打ち込むときのように、長太郎はぐっと気合をこめた。

「……一緒にお祭り行きませんか?」

しばし沈黙。

「…それだけか?」
「はい。」
「メールでも済むじゃねーかそれくらい…」

何故か疲れたような声。

「え…でも、宍戸さんの声が聞きたかったんですよ!」
「まぁ…いいけどな。」

力説する長太郎に宍戸は、何事かと思ったぜ、と小さく呟く。

「…明日の夜、か?」
「あ、はい!」
「確かお前の家のほうが近かったな…んじゃそっちまで行くわ」
「…!はい!」

電話を切って、ようやく自分がベッドの上に正座していたことに気づく。
しびれかけた足を投げ出して、長太郎は小さくガッツポーズをした。

(宍戸さんに…会える!)

それだけで、今夜は眠れそうに無かった。


***


「え?浴衣?」
「そうよ、お父様のがあるから着て行きなさい」

母親はそう言うと、楽しそうにそ大きな着物箪笥の中を探し始めた。
祭りに行く、と言った長太郎よりも何故か楽しそうである。

「いや…一人で行くわけじゃないし、いいよ、普通の服で」
「何言ってるの、せっかくお祭りなんだから、これくらいしないと!」

私もよく着て行ったもの、と微笑まれてもそれは男女の差があるのではないかと長太郎は思う。

「でも、先輩と行くって…」
「じゃぁその先輩にも着てもらったらいいじゃない?」
「えぇ?」
「ほら、ちょうどもうひとつあるのよ。」
「そんなこと言っても、急に…」

ピンポーン!とタイミングよくチャイムが鳴らされる。
一組の浴衣を長太郎に押し付けたまま、母はいそいそと玄関へ出て行った。

「あら、いらっしゃい。さぁさぁ、こっちに来て?」
「え?あ?……!?」

挨拶もそこそこに、家の中へと引っ張り込まれる。
何が何だかわからない宍戸は、長太郎の母が差し出した浴衣を目を丸くして受け取った。

「あの子が着付けはできるから…わからなかったら聞いてね。楽しんでらっしゃい。」

母は強し。
有無を言わせず押し切ると、手を振って奥へと去っていく。
宍戸さんの浴衣姿が見られるならいいか…と考え直す長太郎だった。

「……で、どうすりゃいいんだ?」

困惑顔の宍戸に、苦笑しながら長太郎はTシャツを脱ぎ捨てる。

「せっかくですし、着て行きましょうよ。」

巻き込んですみません、と言いながら手早く浴衣を着こなす長太郎を、宍戸は唖然と見ていた。

「…宍戸さん?」
「あ…いや、お前着るの慣れてんなと思って。」
「そうですね…着物に比べたら、ずいぶん楽ですし。」
「男でも着物着るのか?」
「小さい頃に日舞を少し習わされて…まぁその話はいいとして、宍戸さんも着替えてくださいね?」
「う…」

濃紺の浴衣を着た長太郎は、普段よりずっと大人っぽく見える。

(そういえば、宍戸さんと着替えるって言うのも、久しぶりだな…)

と考えているなんて、黙っていればわからないのだが。

「?」
「いや、着方わかんねーし。」
「会わせさえ間違えなきゃ適当でいいんですけど。…えっと、こっちを前にして、ここ持ってて下さいね。」

てきぱきと着替えさせていく。
宍戸は生成りの麻に、薄紫の朝顔。
男物の浴衣でも十分色っぽい、と長太郎は思ったが、そんなことを口にしようものなら『着替える』と言い出しかねない宍戸の性格もまたよく知っていたので、

「宍戸さん…髪、また伸ばしてるんですね。」

と言うにとどめておいた。
肩口まで伸びた髪をひとつにくくって、赤いヘアゴムで止めている。
そういえば初めて会った頃もこんな髪型だった、と長太郎は思い返していた。



===次へ===



戻る